今日は日曜日。昨日はパーティをして我が家にしては珍しく人が遅くまでいっぱいいたのだが、また基本のルームメイトとナナの二人に戻る。
元彼氏から、目覚ましの電話が来て「ハッピーイースターだね」としばらく穏やかな会話を交わす。ああ、やっぱり好きだよ、この人。
幸福感にもう一眠り貪り(抱き枕もとってもいい心地v)起きて来るとイラクの人質事件もなにやら解決したらしいし(私にとってはいかりやさんの死去と同じくらい「あっそ」な印象)そんなことより私にとっては重大な事件が知り合いの身に起こってボーゼン、といった感じ。私は、国際的な事件より、知り合いの身を案じちゃう身勝手な小市民で、でも事件の尻馬にのって色々はやし立てるだけで何もしなければ結局は無責任な「野次馬」でしかないということを自覚しようとはいつも思ってる。だったら、目の前にいる愛する人の悩みをひとつふたつ聞いてあげようと思う。
自分に出来ることには、radius(半径・範囲・区域)があるとおもう。
人一人の行動・影響の直接及ぼす範囲というか。まだ器が狭くてそういうのが小さい私は、それでも、その中で出来ること、役割を一生懸命にまっとうしようと思うし、そのためにはそのradiusを常にしっかり見分けて自覚しないとな、と思ってる。じゃなきゃ大それたことして周りに尻拭ってもらわなきゃいけなくなるでしょ。
それじゃ、本末転倒だよね。
泳げないのに、溺れてる人を助けに河に飛び込むみたいなもんだ。過去に酔っ払いを助けようとして電車の線路に飛び込んで死んじゃった留学生ってのがいたでしょう。
冷静に考えたらそんな酔っ払いはほっとけ、って思うけど飛び込んじゃった人は、「ああ、いい人だったんだなぁ」って思うしかないでしょう。でもその人の両親だって悲しんだわけで。結局、余計なことしなければよかったのに、と思ってしまうんだ私は。
じゃなきゃ、自分の器を広くしてくしかないよね、地道に。
避けられない事態を事前に防げるとこまで意識を持ってって行動してかなきゃいけない。それは、もう多分きっと一個人として。
例えば、親として、恋人として、家族として。
酒飲み過ぎんなよ、とか、危ないトコに無防備のまま行くなよ、とか回転ドアははさまれるから駆け込むなよ、とか。やっぱり何でも大それた結果になる前は、個人のレベルの話だろ。
だから、私は今日もせっせと愛する人たちに声をかけるのです。
利己的?かもね。だけど正義のために、人一人の命を犠牲にするのは割りに合わない。
あなたのradiusは今どの程度?
今日、その中でやれることを実行した?
してない?―わかんない?
それじゃあ、家族や愛する人に、何気ないメールを打つ、電話をかけることからはじめてみようよ。多分きっとそれが全ての始まりだよ。