果たして、「充実した暮らし」とは何だろう?
豊かな物資や文明、沢山お金に囲まれた生活だけを充実した暮らしと呼ぶのか?その充実を得るために私たちは、365日ほぼ毎日、大勢の他人と肩をつき合わせて電車に乗り込み、もしくは渋滞の列でイライラと一人で時を過ごし、仕事のストレスを解消するために夜は飲み歩いて、家に帰ると余り言葉を交わす事のない家族とやっと顔を合わせる。技術の発達のおかげで家事以外のことをする時間は増えたけど、家を出て働く親たちも増えた。勿論その間子供達は塾にベビーシッターにTVにインターネットにお守りをしてもらって、必要な愛情とケアも不十分なまま、やがて満たされぬままいびつな心を抱えて大人になる。家族の絆や社会との絆というのはもう都市伝説以上に幻想化してきているのが現状。勿論、技術の発展のおかげで恩恵を得ていることも沢山ある。しかし、充実した暮らしを目指して始まったはずのこのゲームはとどまる事を知らず、沢山の弊害を生み出しつつも世界規模のトレンドになろうとしてる。充実した暮らしは産業化と必ずしもイコールなのか?
一口に言えば、アーミッシュの生活は産業革命前の典型的農耕民族の生活様式を今に残すものである。そして、私が彼らとの接触以前に想像していた様に、彼らは偏屈した考え方を持っているわけでもない。ましてや、私たちを見て、未開の地の土人が文明人を見るような目つきをするわけでもない。彼らは、アンチ・テクノロジーの石頭なのではなく、信仰と家族の絆を基調にした生活を尊ぶ人たちなのだ。彼らの一生の習慣を通して貫かれる質素堅実の概念も、見栄や欲望に流されないようにするための知恵である。お金やモノよりもバランスの取れた精神性を得る事を目標として生きているのだ。
アーミッシュの子供達は16歳に達すると、rumspringa ("running around") というアーミッシュの教えや親からの解放期間を与えられ、その間に外の世界を見る機械が与えられる。アーミッシュの伝統的な服装にはないジーンズをはいたり、友達とパーティに言ってお酒を飲んだり、親に咎められることもなく自由な男女交際を楽しんだり、いわゆる普通のアメリカの若者と同じ暮らしを経験することが出来るのだ。そして、その後の人生をアーミッシュとして生きていくか(つまり、自分の意志で洗礼を受けて昔の暮らしに戻る)、外の世界で生きていくかを選ぶことが出来るのだ。謂れでは、ほぼ90%の若者たちが、外の暮らしを経験した後もやはりアーミッシュとして生きていく事を選ぶそう。
果たしてどちらが充実しているのかなどというのは勿論簡単に言い切れるものでもないが、こんな生き方だってなかなかありだと私は思った。しかも、これは夢物語や回顧主義の古い思い出話じゃなく、現実にここアメリカで今も息づいている文化なのだから、感心し、同時に考えさせられるものでもある。