大学では社会学に目覚めて、今もそれを専攻にして日々勉強しているわけなんだけど、たまーにその分野の外に出てみると(或いは外の分野にいる人と交流してみると)気づかされることがある。それは、自分のバイアスについて、だ。私のバイアスは社会学のそれといみじくもぴったりと一致していた。だからこんなに嵌っているのだし、社会学という研究・学問フィールドの中で、いろんな物事に対する「答え」、哲学的に言えば「真理」を見つけ出すために日々情報をむさぼり続けているのだ。
人類科学(ヒューマンサイエンス)の中でも、心理学と社会学は、時々ごっちゃに考えられがちだ。もしくは定義が一般的にはあいまいだと言ったほうが良いだろうか。その原因は、どちらも人間を核にして起こる現象が研究対象であることであると思われるが、この二つの決定的な違いは、大雑把に砕いて言えば、心理学者は、ひとつの現象に対する個人の反応に対して、個人の内側に理由が隠されていると見、社会学者はこの同じ反応に対して、個人の外側からの力が左右していると考えるのだ。勿論、内実はもっと複雑で両方の分野とも見解は入り混じっていて、お互いの見解をブレンドしてもっと見解を広げるような試みも普遍的に見られたりするが、両研究者の基本的アプローチ法を強引に分けようとするとこんな感じになる。例えば、少年が極悪卑劣な犯罪を起こして、この少年の精神的な機能不全や異常性をまず疑うのが心理学者の動きだとすれば、この少年の育った環境と家族や友達との間の人間関係の不全を疑うのが社会学者だ。
そんな中、私は、昔から何か起こるたびに、「この人は悪くない、この人は運が悪くてこのような行動に至る類の環境に生れ落ちて、それを跳ね返すほどの能力もなくて、流れに従って然るべきようになっただけだ」と考える性格だった。人間は皆平等なintegrity(高潔)さを持って生まれるが、その環境は必ずしも平等とは限らない(どちらかといえば不平等なのが常)、という信念を持っている。だから、貧乏人は働かないから貧乏なんだ、という人とは根本的に考え方が違う。私の非常に近しい友達で、「黒人は確かに虐げられた過去を持つけど、今の社会制度の中では、彼らだって社会的に昇給することは他の人種と同等に可能なのに、それに向かって努力をしていない。だから、いつまでたってもダメなんだ」と公言してはばからない人がいる。その人は、プロテスタントの伝統的な労働観(勤労を善とする考え)の中で育て上げられて、個人の勤労に対する報酬を強く信じている人なのでこういったコメントが出てくるわけなのだが、私は、「でも、一見して法律も社会も黒人に対してフェアになったように見えるけどそれはまだまだ所詮、上っ面に過ぎなくて、今でも雇用差別やレッドラインなんかの金融機関からの差別なんかは頻繁に行われているし、何より全体的な黒人層の貧困により教育や社会資本へのアクセスもまだまだ実質限られているし、政府の社会保障のシステムも不完全で、都市部などの公共住宅の施設は、貧困を解決するどころか永続化させるのに機能しているといったほうが過言じゃない。そして、メジャーなアメリカの中流階級白人文化に反発するように彼ら自身が築いてきた文化は、この社会システムの中では負の要素を生産してしまうというトラップになっている。自分自身と家族が成功するために、メジャーな中流階級白人的文化を模倣しようとする若者は、『なんだお前そんな白人みたいなことして』『黒人らしくない』とレッテルを貼られて足を引っ張られてしまう。それ以前に、日常に多くの負のお手本や数々の問題が立ちはばかっていて、どうしたらこの状態を抜け出せるかと冷静に考える時間も見本も与えられず、彼らにとって、まっとうな成功への道は、非常に狭く閉ざされているのが現状だよ」と言わずとも心の中で思うのだ。
この場合、どちらが正しいという問題ではない。私とその人の意見の違いは、そのまま、私とその人のバイアス(価値観)の違いを表しているだけだ。
そして人間は皆自分が信じたい方の「答え」あるいは「真理」を信じて生きていくわけだし、それを踏みにじるつもりはない。でも、私は私なりに、自分の信じた真理に基づいて、いつも、助けの必要な人たちの立場に立って、彼らの平等と正義のために戦って生きたいと思っている。
奇麗事、または何の力もない小娘の戯言、と思われるかもしれないが、私は本気である。